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「詩とその作り方(表題:詩とその作法)」 文藝創作講座(文藝春秋社編)掲載

「文藝創作講座」第九号 文藝春秋社刊(昭和4年8月20日発行)掲載分
10 口語詩と文語詩(続き)

   猫
 まつくろけの猫が二疋
 ぴんとたてた尻尾のさきから
 いとのやうな三ケ月がかすんでゐる
 「おわあ、こんばんは』
 「おわあ、こんばんは」
 「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
 「おわああ、ここの家の主人は病気です」
 この表現の奇抜なことと、いかにも春の夜の情景らしい悩ましい夜のことが思ひ出されるやうに書かれてゐる。すこしの交り気なく、なめらかに、しかも珍らしい表象的な詩である。この詩のやうに、ほとんど、ありのまゝを現はして間隙のないリズムをとり入れ得たのは、もちろん作者の特異な神経質な世界にあつて初めて表現し得るものであらうが、一つには激しい独創の表はれであることも首肯(うなづ)かれる。
 口語詩は明治三十年頃、俳人正岡子規氏が企てゝから後、自由詩社と云ふ名義で二三の人が試みたが、やはり北原白秋氏の「思ひ出」がその質の上からも、内容の豊富だつた上からも、そのやゝ完成に近く努力した一人であつたであらう。
 最近に至つては殆んど文語詩は全然見られなくなつた。人間の語るほんとの純な言葉がどれだけ人間同志の心から心へ、よい理解とひびきを伝へるか知れない。まはりくどい抽象的な言葉や、徴象的な表現は、人間のよい心を持つた人に、わるい技巧や、きざな焦心とを与へるだけで詩の本質的な精神からは全然除けなくてはならない。

 文語詩はやはり蒲原有明氏の有明集時代が最も代表された文語詩時代であつた。非常にむづかしく、そして抽象的な内容が多かつた。白秋氏の「邪宗門」が文語詩に於て最も代表的な表現を持つてゐて、それが内容の新鮮な選択やリフアインメントによつて、その当時じつに美事なものであつた。

   あかき木の實
 暗きこころのあさあけに
 あかき木の實ぞほの見ゆる
 しかはあれども書はまた
 春といふ日にわすれしか
 暗きこころのゆうぐれに
 あかき木の實ぞほの見ゆる

 現今にあつて文語詩は、だれ一人として書いてゐる詩人がない。あつても取るに足らない人々である。力に乏しく、又貧しい。まはりくどい言葉がだんだんに無くなつて行つたことはいかに凡ての人々が、吾々の日常語を必要としたかが解る。その日常語のふくんでゐる多量の詩味や、又、日用語でなければならない「表現出来ない」ものもある

11 戀および愛の詩
ロダンがこんなことを云つてゐる。
 「其の藝術家は創造の原始的原理に透徹しなければならぬ。美しきものを会得する事によつてのみ彼は霊感を得る。決して彼の感受性の出し抜けな目覚めからではなく、のろくさい洞察と理解とにより辛抱強い愛によつて得るのである。心は敏捷であるに及ばぬ。なぜといへばのろい進歩はあらゆる方面に念を押す事になるからである。」
 まことに辛抱強い愛は吾々人類にとつて、美しい救ひである。愛なくして人は生きられるのではない。吾々は限りなく自分をも人をも愛したい。愛の中に不断な温かな呼吸を感じてゐたい。愛は吾々を良くし、吾々を育てる。
 戀するものにとつて、詩は、美しい安息の都である。そこには限りしられぬ甘美な囁きがあふれ、また、吾々の苦しい現實生活に安らひと憩ひとをつたへてくれるのであふ。戀するものにとつて如何に感動に充ちた詩が存在する世間であらう。いかに幸福な多くの愛がこの世間に埋れてゐることであらう。
 よしそれらが、あらゆる社会的条件その他によつてはばまれてゐようとも、人間は必ずその「愛」を堀り出すであらうし、その為には如何なる犠牲をも惜しまぬであらう。
 そして、人類はその最後まで、それらの詩を追求し、それに達する為に計らひ、又努めるであらう。

  永遠にやつて来ない女性
 秋らしい風の吹く口り
 柿の木のかけもする庭にむかひ
 水のやうに澄んだ空をながめ
 わたしは机にむかふ
 そして時々たのしく庭を眺め
 しほれたあさがほを眺め
 立派な芙蓉の花を讃めたゝへ
 しづかに君を待つ気がする
 うつくしい微笑をたゝヘて
 鳩のやうな君を待つのだ
 柿の木のかげは移つて
 しつとりした日ぐれになる
 自分は灯をつけて 又机に向ふ
 夜はいく晩となく
 まことにかうかうたる月夜である
 おれはこの庭を玉のやうに掃ききよめ
 玉のやうな花を愛し
 ちひさな笛のやうなむしをたたへ
 歩いては考へ
 考へてはそらを眺め
 そしてまた一つの塵をも残さす
 おお 掃ききよめ
 きよい孤独の中に住みこんで
 永遠にやつてこない女性を待つ
 うれしさうに
 姿は寂しく
 身と心とにしみこんで
 けふも君をまちもうけてゐるのだ
 ああ それをくりかへす終生に
 いつかはしらず祝福あれ
 いつかはしらずまことの恵あれ
 まことの人のおとづれあれ  (自作)

 私はかつて永い間愛ある女性を求めてゐた。どうしてもなければならぬ永遠の、その生涯の友を求めてゐた。もの憂く悲しげな多くの朝のめざめや、くる永い夜毎やに、私はこの世界の何處かに居るべき、私の一人の女性をゆめ見、又、それを信じることに樂しみをかんじてゐた。それはちやうど孤獨であるべき萬人の持つところの、つらい運命の一つでもあり、どうしてもそれらに打ち勝たねばならない。又、どうしても獲得しなければならない愛でもあった。
 詩の大意(こころもち)は(いつも孤獨であるもの、又それに生活するものの、受りない永遠にあこがれた)一つの言葉でもあるのである。
 秋の日のしんと晴れ上った空のもとに、かれは今日も幸福と愛との訪づれを豫感するやうに、自分の生活を洗ひ清め、心を謙譲にもつて、いそいそと庭をはいたり、そらを眺めたり、また、かに祈つて見たり、愁へて見たり、考へては歩いたりしてゐる、寂しい姿をとりいれたものである。
 ジャン・ジャック・ルッソォがド・ワラン夫人と緑の木かげで美しい物語りに耽つたやうに、それは全く一つの詩であるより外はない。ヴエルレーヌのランボォを慕つた異常な戀の如きも、美しい詩人の愛として吾々は同感が出来る。
 吾々はその力の限り、生命の限り、また、凡ての眞實にして善良なる心の限り、この世界の優秀なるものを愛したいのだ。またその強烈な愛を求めるために、私どもの詩を書く理由もあるのだ。

 寝臺を求む
どこに私たちの悲しい寝臺があるのか
ふつくらとした寝臺の 白いふとんの中にうづくまる手足があるのか
私たち男はいつも悲しい心でゐる
私たちは寝臺をもたない
けれどもすべての娘たちは寝臺を持つ
すべての娘たちは 猿に似たちひ芯な手足をもつ
さうして白い大きな寝臺の中で小鳥のやうにうづくまる
すべての娘たちは 寝臺の中で但のしけなすすりなきをする
ああ なんといふしあはせの奴らだ
この娘たちのやうに
私たちもあたたかい寝臺をもとめて
私たちもさめざめとすすりなきがしてみたい。
みよ すべての美しい寝臺の中で 娘たちの胸は互ひにやさしく抱きあふ
心と心と
手と手と
足とあしと
からだとからだとを紐にてむすびつけよ
心と心と
手と手と     
足と足と
からだとからだとを撫でることにより慰めあへよ
このまつ白い寝臺の中では
なんといふ美しい娘たちの皮膚のよろこびだ
なんといふいぢらしい感情のためいきだ
けれども私たち男の心はまづしく
いつも悲しみにみちて大きな人類の寝臺をもとめる
その寝臺はばね仕掛けでふつくりとしであたたかい
まるで大雪の中にうづくまるやうに
人と人との心がひとつに解けあふ寝臺
かぎりなく美しい愛の寝臺
ああ どこに、求める私たちの悲しい寝臺があるか
どこに求める
私たちのひからびた醜い手足
このみじめな疲れた魂の寝臺はどこにあるか。 詩集「青猫」より

 作者萩原氏は、病的な、陰気な詩を書く人である。かれは永い間孤獨であつた。つらい寂しさは。いつもかれの胸を覆ふた。かれはしかしなけ純な愛ある少女を想ふたり、またその愛を求め疲れてゐた。
 萩原氏の詩は主として一種の暗みをもつたどことなく悩ましい作品が多くこの詩もその一つである。
 萩原氏とは全然ちがつた意味で高村光太郎氏は明るい作品が多い。左(下)に抜粋して見よう。

   婚姻の栄踊
 ほめよ、たたへよ
 婚姻のよろこびをうたへよ
 新郎と新婦と
 手をとりて立てり
 さかんなるかな
 新らしきいのち今創られむとす
 しかしてまた
 新らしき征服の歩みは今祝がれたり
 ほめよ、たたへよ
 婚姻のよろこびをうたへよ
 新郎は力に満てり
 新郎はよろこびにかがやけり
 新郎はあらゆる可能をその手に握れり
 新郎よ新郎よ
 汝のよろこびを極め
 汝の力を飽く事なく注ぎつくせよ
 與へられたるすべての慾望に
 汝白身を信頼せよ
 又永遠の理法と永遠の情念とに
 汝白身を研ぎひからせよ
 新郎は雄々し
 新郎はたのしむべきかな
 ほめよ、たたへよ
 婚姻のよろこびをうたへよ
 新婦は愛に満てり
 新婦はさいはひにわななけり
 新婦はありとある美しさをその胸に蔵せり
 新婦よ新婦よ
 汝のさいはひの一しづくをも余す事なく味へよ
 汝の愛の日に新しくめざましめよ
 汝の使命をおもひわづらひて
 汝の本能に軛(くびき)をかくるなかれ
 ただかがやけよ
 汝の本来を堀りふかめ
 汝の深因に汝の喜怒哀樂を裏づけよ
 汝は大地より湧けり。
 汝は何ものをも掴む大地の底を體現せよ
 新婦はらふたし
 新婦は愛すべきかな
 ほめよ、たたへよ
 婚姻のよろこびをうたへよ
 新郎と新婦と手をとりて立てり
 汝等は愛に燃え、情慾に燃え
 絶大の自然と共に猛進せよ
 減却は罪悪なり恥辱なり
 ただ増大せよ眞に瞬刻のいのちを惜しめよ
 ほめよ、たたへよ
 婚姻のよろこびをうたへよ
 高村氏の持つ明快な健康は、よく詩に行き亙って、立派な一つの強風のやうなリズムと堂々とした姿をもつている。
いかにも氏らしい高調された愛の世界の讃美である。
 少しのいやみも、少しの衒気もない。ただそのリズムの走るところを走らし切つたといふ境地に氏の特質である「開放されたリズム」が躍つてゐる。

  雨にうたるるカテドラル
 おお又吹きつのるあめかぜ。
 外套の襟を立てて横しぶきの此の雨にぬれながら
 あなたを見上けてゐるのはわたくしです。
 毎日一度ぱきっと此處へ来るわたくしです。
 あの日本人です
 けさ、
 夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が
 今巴里の果から果を吹きまくつてゐます。
 わたくしにはまだ此の土地の方角が分かりません。
 イイル ド フランスに荒れ狂ってゐる此の嵐の顔が
 どちらを向いてゐるかさへ知りません。
 ただわたくしは今日も此所に立って
 ノオトルダム ド パリのカテドラル
 あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました。
 あなたにさはりたいばかりに
 あなたの石のはだに人知れず接吻したいばかりに。
 おお又吹きつのるあめかぜ。
 もう朝のカフェの時刻だのに
 さつきポン ヌウフからみれば
 セエヌ河の船は皆小狗のやうに河べりにつながれたままです。
 秋の色にかがやく河岸の並木のやさしいグラタンの葉は
 庭に追はれた頬白の群のやう
 きらきらぱらぱら飛びよつてゐます。
 あなたのうしろのマロニエは
 ひろげた枝のあたまをもまれる度に。
 むく鳥いろの葉を空に舞ひ上げます。
 逆に吹きおろす雨のしぶきで其が又
 矢のやうに廣場の敷石につきあたつて砕けます。
 廣揚はいちめん、模様のやうに
 流れる銀の水と金茶焦茶の木の葉の小島とで一ぱいです。
 そして毛あなにひびく土砂降りです。
 何かの吼える音きしむ音です。
 人間が声をひそめると
 巴里中の人間以外のものが一斉に声を合せて叫び出しました。
 外套に金いろのプラタンの葉を浴びながら
 わたくしはその中に立つてゐます。
 嵐はわたくしの國日本でもこのやうです。
 たが聳え立つあなたの姿を見ないだけです。
 おおノオトルダム ノオトルダム。
 岩のやうな山のやうな鷲のやうなうづくまる獅子のやうなカテドラル

 灝気の中の暗礁
 巴里の角柱
 目つぶしの雨のつぶてに密封され
 平手打の風の息吹をまともにうけて
 おお眼の前に聳え立つノオトルダム ド パリ
 あなたを見上けてゐるのはわたくしです
 あの日本人です
 わたくしの心は今あなたを見て身ぶるひします
 あなたの此の悲壮劇に似た姿を目にして
 はるか遠くの國から来たわかものの胸はいつはいです。
 何の故かまるで知らす心の高鳴りは
 空中の叫喚に聾を合せてたたをののくばかりに響きます。
 おゝ又吹きつのるあめかぜ。
 出来ることならあなたの存在を吹き消して
 もとの虚空へかへさうとするかのやうな此の天然四元のたけりやう
 けぶつて燐光を發する雨の乱立
 あなたの頂を斑らにかすめて飛ぶ雲のうろこ
 鐘楼の柱一本でもへし折らうと執念深くからみつく旋風のあふり
 薔薇窓のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ羽ばたく無数の小さな光つたエルフ
 しぶきの間の見えかくれるあの高い建築べりのガルグイユのばけ物だけが
 飛びかはすエルフの群を引きうけて

 前足を上け首をのばし
 歯をむき出して燃える噴水の息をふきかけてゐます
 不思議な石の衆徒の幾列は其様な手つきをして互にうなづき
 横手の巨大な支壁はいつもながらの二の腕を見せてゐます
 その斜めに弧線をゑがく幾本かの腕に
 おお何といふあめかぜの集中
 ミサの日のオルグのとどろきを其處に聞きます
 あのほそく高く尖塔のさきの鶏はどうしてるでせう
 はためく水の幔まくが今は四方を張りつめました
 その中にあなたは立つ。
おお又吹きつのるあめかぜ。
その中で
八世紀間の重みにがつしりと立つカテドラルル
昔の信ある大力の手でIつづつ積まれ刻まれた幾億の石のがたまり
眞理と誠實との永遠への大足場
あなたはたた黙つて立つ。
吹きあてる嵐の力の強さを知つてゐる
しかも大地のゆるがぬ限りあめかぜの跳梁に身をまかせる心の落着を持つてゐる
おお錆びた、雨にががやく灰色と鉄いろの石のはた
其にさぱるわたくしの手は
まるでエスメラルダの白い手の甲にふれたかのやう
そのエスメラルダにつながる怪物
嵐をよろこぶせむしのクワジモトがそこらのくりかたの陰に潜んでゐます
あの醜いむくろに盛られた正義の魂
堅靭な力
傷くる者、打つ者、非を行はうとする者、蔑視する者
ましてけちな人の口の端を黙つて背にうけ
おのれを微塵にして神につかへる
おおあの怪物をあなたこそ生んたのです
せむしでない、奇怪でない、もつと明るいもつと日常のクワジモトか
あなたの荘厳な掩ひかばふ母の愛に満ちたやさしい胸にはぐくまれて
あれからどの位生れたことでせう
おお雨にうたるるカテドラル
息をついて吹きつけるあめかぜの急調に
俄然とおろした一瞬の指揮棒
天空のすべての樂器は混乱して
今そのまはりに旋囘するこの乱舞曲
おおかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル
嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル
今此所で

 あなたの角石に両手をあてて熱い頬を
 あなたの肌にぴつたり寄せかけてゐるものをぶしつけとお思ひ下さいますな
  「酔へるもの」なるわたくしです
  あの日本人です。        (高村光太郎氏)
 高村氏のリズムが強風ならば福士幸次郎氏はあらしとでも云ひ得やう。その徹した魂ある言葉はいつも 私の胸にひびいてくる。
 詩はどうしても最後まで魂の仕事であり、又、その言葉であることを知るならば、いかにこれら二氏の作品がそれらの凡てをよく備へ得てゐるかがわかるであらう。また、これら二氏の作品が今の日本に於ける代表的な詩人である
ことをも知ることが出来るのである。
 私は次ぎに福士氏の詩を引用しよう。

      有 情
         (千家元麿に)
ゴールデンバツトを吸ひながら
僕は日の暮れ方の倉庫街を思ひ出した
赤く金をかずつた断れ雲が
空いつぱいに光つてゐる
一群の屋根草が同じ色に染まつて光つてゐる
河沿ひの倉庫は一列になつて
堀割りの水深く落ちてゐる
その水はいつも流れず
いつも淀まず
むねもあらはにさらけ出して
冷たい嘆きをうつしてゐる。
僕はそのあと二月の間
死身になつて心に鞭つた
襲ひくる薄はだの寒さに
つねに氷のゆめをつくつた
日蔭の鳥は羽ばたきして
つらい牢屋のゆめをつくつた

今こそ僕の肉体は
悪熱を病んでゐる。
肌身ぱなさず或る友の肉体を
つねに戀ひしたうて慄へてゐる
常にせぐりあけて慕ひ泣く聲を
肌に耳あてて聞いてゐる。
ここにまことの愛があつた
いつも流れず
いつも淀まず
むねもあらはにさらけ出して
互ひに烈しい熱にふれあふ愛があつた。
福士氏には「展望」と「人陽の子」と二冊の詩集がある。これは今日ではまことに手に人れ難い。
然し、詩に志す諸君は是非一度福士氏の詩を讀むやうにおすゝめする。
私は福士氏の作品に表はれる一種の新しい象徴味がその作品を重くしてゐることに特に注意してゐる。

12 美しい詩とその評釋
 詩にはどんな急進的な韻律があつても詩みづがらが有つところの優しさが含まれてゐなければならない 。そして、それを表現する上に極めて優美な、リズミカルな、彼の美しい仮名使ひによつて、静かなリズムと、ゆたかな情念とを讀む人の胸に湧かさなければならない。
 平仮名は優しい文字である。それは恰度、最も良い詩が明晰な印刷によつて、詩に一段の整へられた姿 を与へられるやうに美しい詩には美しい情念と、美しい仮名づかひとに據らなければならない。それらの總ての準備は完きまでに、よい詩になり終せるのである。吾々の愛する自然なり人間なりの最もよい特質には、まるで詩とそつくりなものが、その美しい匂ひを湛へてゐるのである。それは恰度吾々の持ちこがれてるる愛人のやうに吾々の胸にせまつて、詩になつたりするのである。

 ながれのきしのひともとは
 みそらのいろのみづあさぎ
 なみことごとくくちづくる
 なみことごとく忘れゆく

 この小曲の美しさは、内容の美しさもあるけれども、主としてあえかな仮名がたくみに用ゐられ、つづ られ、織られてゐるからである。「ながれのきしのひともとほ」と、ゆるく平面的に、木のながれるやう に歌ひ出しておいて、そらのいろのみづあさぎ」で句を切つて、りズムにひと息いれたのは、なんとも云 へない巧みな美しさに充ちて、そぞろに人人をして日没や半夜のソロを思はしめ、また、樂しませるものである。

ふるさとは
とほきにありておもふもの
よしや うらぶれて異土のこじきになるとても
かへるところにあるまじや
かへるところにあるまじや    (自 作)

 この作ほ、私が都合にゐて、ときをり窓のところに佇つて街の騒音をきゝながら「美しい懐かしい故郷 」を考へてうたつた詩である。
 だれでも都合に佇む人々らほ時をり私のやうに悲しけな目付をして故郷の温かい山河を想起して、そこ に合つて誉んだ平和な生活を胸に浮ばせるてあらう。自分の家の庭や、庭の木やゝ幼少のをりに遊んた草摺や、公園 や、タ暮の町の有様や、さては、樂しげな善良な自分らを愛してくれた親密な人々やを心に描いて、何一 つ身に親しまない「旅」にあるやらな慌しくしかも冷たい都合を悲しく思ふであらう。いつの世も故郷は吾々の胸に緑緑として燃えたり煙つたりしてゐる。夜はゆめにまで親密な山河に遊ぶことさへ願ふのは、人としてしなければならない「感情 の慰め」である。しかし自分ほ帰りたくない。自分は強大な生きた姿で此都合にありたい。自分が見搾らし くよし乞食となつてもかへつてはならない。

 まこと故郷はただ遠方にあつて思慕するところである。かへつては最つと寂しく悲しいことが多いことたらう。自分ほやはり此の都合にゐたい。――大意ほこの心持を体したものである。

   公園の椅子
 人気なき公園の椅子にもたれて
 われの思ふことほけふもまた烈しきなり
 いかなれば故郷のひとのわれに辛く
 かなしきすももの核(たね)を噛まむとするぞ
 遠き越後の山に雪の光りて
 麥もまたひとの怒りにふるへをののくか。
 われを嘲けりわらふ聲は野山にみち
 苦しみの叫びほ心臓を破裂せり
 かくばかり

 つれなきものへの執着をされ。
 ああ生れたる故郷の土を踏み去れよ
 われは指にするどく研けるナイフをもち
 葉桜のころ
 さびしき持子に「復讐」の文字を刻みたり。
                    (萩原朔太郎)

 この詩に就ては説明するまでもあるまい。萩原氏の郷土望景詩には激越的な忍耐強い人のよくする怒り が、綴られてゐる。
 「月に吠える」や「青猫」によって氏を洞見してゐた讀者は、如何にこの詩集によつて驚異するであら う。以上の詩集によつて知らるる氏は強い厭世思潮-者であり、和範的な詩人である。この眼をつぶつた、歯を食ひしばつた怒りを知らない。この現實的な苦悶を知らない。

   波  宜  亭
 少年の日は物に感ぜしや
 われは波立亭の二階によりて
 かなしき情歌の思ひにしづめり
 その亭の庭にも草木茂み
 風ふき渡りてばうばうたれども
 かのふるき持たれびとありやなしや
 いにしへの日には鉛筆もて
 欄干にさへ記せし名なり。
 これも同じく郷土望景詩中の一篇であり、而もおそらくは、その壓巻であらう。
 かうした詩を作ることはもはや技巧でも、理窟でもなく、ただ、力である。一すぢに高揚して行く感情 を以つて、ひた押しに押し追つて行く力である。
  吾々はいこ詩を数多く讀むことによつてのみ、この力がどんな物であるかを知ることが出来るであら
う。
 千年も前から詩人たけがこの力を持つてゐた。吾々は杜甫の詩の中に、この力の最も強力な表はれを見出すのである

    春  帰  る
 苔径江に臨むの竹
 茅翁地を覆ふの花
 別れ来りて甲子頻なり
 帰り到れば忽ち春草
 杖に倚りて孤石を看
 殼を傾けて浅沙に就く
 遠鴎水に浮んで静かに
 軽燕風を受けて斜なり
 世路梗がること多しと雖も
 吾が生も亦涯り有り
 此の身醒めて復た酔ふ
 輿に乗じて即も家に帰る。 

  これはほんの一寸した小曲である。杜甫の眞價を最もよく知るためには、北征その他のもつと規模の大きな物を選ぶべきであつたかも知れぬ。而も、この数行の中にさへ、吾々は千年前の老詩人の寂しい姿を充分に見出し得るのである。
遠鴎浮水静 軽燕受風斜

かうした描写の力は今日吾々が特に学ばねばならぬところである。

13 フランスの詩人に就て
 フランスの詩人にはまことに優れた人が多い。比較的近代の人をとつて見ても、グールモン、ヴエルレーヌ、ヴエルハーレン、ギヰ・シャルル・クロス、フランシス・ジャム、ジャン・コクトウ其他十数に余るであらう。
 彼らを一貫して。その持長は、語藻のきはめて豊富なことである.
 一つのことを云ひ現はすのに十も二十もの言葉を持つてゐる。それをまるで賓石函の中から自分の気に人つた賓石でも取り出すやうに取り出して、詩の中に嵌め込むのである。そして、漬者の感情を全く自分の掌の中に捉へ込んでしまふ。

   レキサンデルグの公園で
        ――ギイ・シヤルル・クロス
 私は一人の小さな女の子を思ひ出す
 それはレキサンブルゲの公園の五月の或る日の事だつた
 私は一人で坐つてた。私はパイプを吹かしてた。
 すると女の子はじつと私を見つめてた。

 大きなマロニエの水影には桃色の花がふってゐた
 女の子は音なしく遠びながらじっと私を見つめてた。
 女の子は私が言葉をがけてくれればいいがと思つてゐたのだ。
 かの女は私が幸福でない事を感じたのだ。
 然し小さなかの女には私に言葉をかけることは出来なかつたのだ。
 棒の實のやうに圓い目を持った女の児よ、やさしい心よ
 お前ばがりが私の苦悩を察してくれたのだ
 彼方をお向き、どうして今のお前に了解すらことが出来ませう?
 彼方ヘ行っでお遊びなさい、姉さんが持ってゐます
 ああ誰れも治すことも慰める事も出来ぬのだ。
 小さな女の子よ、何時かお前にそれが分る日が来るでせう
 その日、遠いやうで近いその日、お前も今日の私のやうに
 レキサンブルグ公園へお前の悲しみを考へる為めに来るでせう。

  続き → 「詩とその作り方」その5 前に → 「詩とその作り方」その3

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