「日本詩集」(1919年版)
私はふと心をすまして
その晩も椎の實が屋根の上に
時を置いて撥かれる音をきいた
まるで礫を遠くから打つたやうに
佗しく雨戸をも敲くのであつた
郊外の夜は靄が深く
しめりを帯びた庭の土の上に
かなり静かな重い音を立てて
うれた椎の實は
ぽつりぽつりと落ちて来た
それは誰でもあの實のおちる音を
かつて闘いたものが、お互ひに感じるやうに
まるで人間の微かな足音のやうに
温かい静かなしかも内気な歩みで
あたりを憚りながら
優しくしのんで来るやうであつた
私は書物を閉ぢ
雨戸を繰つで庭にひろがつた靄を眺めた
温かい晩の靄は一つの生きもののやうに
その濡れた地と梢とにかかつてゐた
私は彼の愛すべき孤獨な小さな音響が
實に寂然として
目の前の地上に触れるのをきいた
都会のはづれにある町の
しかも奥深い百姓家の離れの一室に
私は父を亡つて
遠く郷里から帰つて坐つてゐた
あたかも生涯のなかばに立つて
あとの生涯をゆだねつくす仕事のため
心を深く決めた深い晩であつた
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「第二愛の詩集」
私はふと心をすまして
その晩も椎の實が屋根の上に
時を置いて撥かれる音をきいた
まるで礫を遠くから打つたやうに
佗しく雨戸をも叩くことがあつた
郊外の夜は靄が深く
しめりを帯びた庭の土の上に
かなり重い静かな音を立てて
椎の實は
ぽつりぽつりと落ちてきた
それは誰でも彼の實のおちる音を
かつて闘いたものがお互ひに感じるやうに
まるで人間の微かな足音のやうに
温かい静かなしかも内気な歩みで
あたりに忍んで来るもののやうであつた
私は書物を閉ぢて
雨戸を繰つで庭の靄を眺めた
温かい晩の靄は一つの生きもののやうに
その濡れた地と梢とにかかつてゐた
自分は彼の愛すべき孤獨な小さな音響が
實に自然に、寂然として
目の前に落ちるのをきいてゐた
都会のはづれにある町の
しかも奥深い百姓家の離れの一室に
私は父を亡つて
遠く郷里から帰つて座つてゐた
あたかも自らがその生涯の央に立つて
しかも「苦しんだ藝術」に
あとの生涯をゆだねつくさうと心に決めた
深い晩のことであつた
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